私見_創造性発揮には本を読め?

 今回はテイストを変えて、この書評ブログを立ち上げた個人的なきっかけを気の向くままに書いてみたいと思います。

 

  先日、某部署のとある方が、本タイトルのようなことを述べられていました。たしかに、まあそうかなと思う方が多いかと。私もその一人です。では、なぜ今さら「本を読め」なのでしょうか?その方の残りのお話はきれいさっぱり忘れてしまったのですが、なぜか妙に私の頭にそのフレーズが染み付きました。なぜそう思うのかを少し考えてみました。

  経済学者ヨーゼフ・シュンペーターの引用をわざわざ紹介するまでもなく、創造=イノベーション(アイデア)は「既存の要素」の組みあわせと定義されています。つまり、アイデア創出には「既存の要素」が何であるかを知る必要があるわけです。ということは、「既存の要素」を知るのに「本を読め」ということになりますが、これだといささか飛躍があります。なぜなら、読書以外でもその目的が達成できる場合もあるからです(知識だけならwikiで調べればいいですし、競合品探しはデータベースで事足ります)。そうではなくて、創造するには「本を読め」なのです。(他方、組みあわせのやり方を学ぶために「本を読め」とおっしゃっているのかもしれません。ただ、やはり組みあわせようと思ってもやはり「既存の要素」を知ってからどう組みあわせようかと考えるのが自然でしょう。)

 ということはどういうこと? wikiやデータベースではできない点を書籍に求める、と考えるのが自然でしょうか。では、両者の違いはいったい何なのですかね (なお、ここではハナシをわかりやすくするために、書籍=評論としておきます)。両者の違いとしていくつか挙げられそうですが(掲載内容の違いなど)、ここでは立証責任という観点を提示したい。ずばり、前者(の管理人・作成者)は立証責任はありませんが、後者(の作者)にはその責任があります。どういうことか説明します。前者の場合、目的が情報のアーカイブである以上、新たな視点は基本的に要求されません。もちろん、明らかな誤りは訂正されるべきですが、時代によって掲載内容の定義が変わってくるので更新されるというケースが少なくありません。つまり、その都度変えていけばいいだけです(wikiもデータベースも何回も何回も改訂されていますよね。)。他方、後者はそうはいきません。書籍である以上は、読者に対して常にそのときに新たなものの見方を提示されているのが一般的です。少なくとも読者に「新しい」と思わせなくては、まず手にとってもらえません(もちろん、買ってももらえません。)俺の新たなものの見方は○○○だ、今まではこういう考え方が主流で、代表的な考え方が×××、これと比べてメリットは△△△だ、ということを立証して読者は納得して同意してくれないわけです。致命的なのは、それができない著者つまり読者のいない著者に存在価値はありません。つまり、「本を読む」というのは著者の立証責任を検証するというプロセスなのです。その観点で書籍に目を通してみると、実に著者は様々な視点でわれわれ読者を説得しようとしています。説得するためにあの手この手。巷の主張を持ち出しそれに反論するという形で自分の意見を主張したり、グラフをもちだして図解しようとしたりするケースもあります。あるいは凝った説明だと、イントロにその主張にまつわる「歴史」という観点をもち出し大局的な観点からどうのこうのと論じていたりします。場合によっては、同じ内容を文章のなかで何度も何度も主張していたりする作家・著者もよくみます。

 ところで、このプロセス何かに似ていると思いませんか?そうです。われわれの研究開発の業務立案にそっくりです(会議等で差別化点、差別化点と口を酸っぱくして指摘されますよね)。この文章を読まれている方のなかで、この手の立証責任に関わらない方はいないと思います(研究手法、組織運営等々)。ここで私からのささやかな提案です。「本を読む」ということを通じて立証責任のパターンをストックしておくと、俺/私のアイデアはこんなに創造的なのだということが評価者によく伝わると思うのです。この上手い下手で同じ内容を説明するにしても、結果は大きく変わってくるはずです。(iPS細胞の山中先生の最初の予算がとれたのは目的の幹細胞をとるための明確なストーリーが描けていたからだと、京大岸本教授が述べていたのは有名な話だと思います。)もちろん前提となるアイデア自体が重要であるのは言うまでもないのですが、それのみではなかなか「創造的」と認めさせるのは容易ではないと思います。 

(論証の仕方自体を演繹的に学ぶというもの一つなのですが、具体的に何らかのトピックの論証を通じてその型を知る、という帰納的な考え方の方が研究開発にはふさわしいと思います。哲学科論理学のトピックも個人的には好きなんですけどね。。。)

 

で、この書評コーナーの狙いです。

 とはいえ、「本を読め」という号令がかかるということは、ずばり「本を読む」ことはとどのつまり「メンドくさい」ことなのです。(すぐできることに対して、わざわざ「号令」はかけません。)振り返ってみると、「本を読め」とは小学校の宿題から端を発するフレーズです。私たちは何度このセリフを何回も何回も親や教師から言われてきたのでしょうか。「では、そういう先生方は昨日どんな本を読みましたかと?」と言い返したいと思ってからはや数十年。。。

 ところで、私はなぜか本屋の近くに住んでいるせいもあって、同世代平均よりは割と読書するタイプだと自負しています。しかも、ジャンルを問わずわりと乱読するタイプですので、私が目を通した本が「こんな本もあるのね」と思って頂けるのではと淡い期待をしています。もちろん、ただ感想を述べるのではなく、私が読んだ本から読みとった創造性へのヒント(めいたもの)も提示したいと思います。皆様の活動の少しでもご参考になれば幸甚です。 

 

(追記)某飲み会のときに、後輩に「先輩のメールは長い」と指摘されました。「文字の多さは責任感の表れです」と即座に立証責任を果たしたくなる衝動にかられました。